噂には聞いていたものを、ついに目にしてしまいました。
ばぁの畑で大根やカブを引き抜かせてもらったあとに立ち寄った、
産直系スーパーの生鮮食品コーナーで。
キャベツ、半玉299円。
ひと玉、499円。

(思わず凍り付く店主・・・)
もちろん、誰かが意地悪をして、値段をあげようとしているわけではない。
大規模栽培で野菜を生産されている方、御売業者の方、運送業者の方、小売店にとって、
この選択は苦渋のものであったであろうな。と思うとともに、
考えてしまったのです。
そもそも、『野菜の価格っていくらであればいいの?』

ココラカラのある福井県池田町では、
自家用に野菜を栽培されたり、
家庭では食べきれない農産物をこっぽい屋というアンテナショップで販売される方もいて、
(このあたりの素晴らしい仕組みはまた改めて語らせてください)
野菜をあげたり、いただいたり、自身で育てた野菜を食べる機会も頻繁にあります。


勿論、スーパーで野菜も買いますが、購入するのは、
【このへんに今時期ないもの】になりがちで、
「あとちょっとで、うちの茄子ができるのに・・・」と言いながら、
食べたさを我慢しきれず、渋々買ったり、
アボカドなんてハイカラなものを食べたくなる時は
何か顕示的な消費的をしているような気分になるわけです。(それもまた楽しい)
店主がキャベツが高いと思うのは、
「おばちゃんからもらったり、自分でも育てられなくもない
(アブラナ科葉野菜の栽培がなかなかうまくいかないので断言はできない)野菜を
買うことへの「なんか、お金出すの惜しいな」という、けちけち感覚なのかもしれません。
では、ここで、食べるため、生きていくうえで
必要な野菜を育てるのか/購入するのかについて、それぞれの場合で
失っているもの、得ているものについて考えてみると、
■野菜をできる限り自分で育てる場合
≪メリット≫
・金銭的負担を軽減できる
・四季折々新鮮な野菜を食べられる
・生活を自分で作りあげる楽しさ、経験を積み上げることが出来る
≪デメリット≫
・野菜を育てるうえでの知識、体力、時間が必要になる
・綺麗な状態に育てられる保証はない(虫に食われる、生育不全)
・調理の手間がかかる(泥を落とすなど)
・土地、、農機具、タネの購入費など、金銭的な投資が得られる野菜と釣り合っているかは不明
■野菜をどこかから購入する場合
≪メリット≫
・大幅な生活にかかる時間の短縮(野菜を収穫し、洗う手間の短縮)
・いつでも綺麗な状態の野菜が手に入る
・季節を問わず、食べたい野菜が食べられる
≪デメリット≫
・金銭的負担がある。(経済的に困窮であるほど、生きることの困難につながる)
・野菜を購入できるシステムの不全によっては、手に入れられなくなる可能性がある。
・野菜栽培に関する知識が不足しがちのため、生産側の事情を考えられなくなる、こともある。かもしれない。
ざっとあげてみたところで、ひとつの着目点かなと思うのが、
『食べるに至る時間』。

このあたりで、何十年も時給的な生活をされてきた方は、
おそらく、食べるということにかなりの手間と時間をかけている気がします。
畑を耕し、タネをまき、うまく発芽しなければタネを播きなおし、
水不足の時は水をやり、防虫ネットをかけたり、収穫すれば、泥を落とし、
更に干したり、次の年の収穫のためにタネをとったり、
数か月~半年の時間を要して、食べている。
生活にかける時間を膨大にかけているし、手間もかかる。
けれども、その時間は本当に豊かなもので、
食べるすべを知っていることが自身の生きる力になることを、
この町で暮らしているとよく感じます。
でも一方で、この時間があれば、金銭を稼ぎ、余暇の時間を獲得し、文化を楽しむことが、
よりできるようになるはず。


誰かに野菜を作ってもらい、食にかかる手間と時間をアウトソースする仕組みができたことで、
自分の仕事に専念できるようになり、社会は発展し、
いまやどこにいても同じ食文化を得られるようになった。
それは、とても幸せなことだと思うのです。
野菜を育てられる地で生きることも、野菜を買うことができることも、
きっとどちらも幸せで、それぞれのリスクがある。
問題はきっと、499円の野菜を作る人、届ける人が、それで生活ができるのか。
499円の野菜しか買わざるを得ない人が、それで生活ができるのか。
その均衡がとれているのか、そもそも、その均衡の構造を両者が理解しているかにあるような気がします。
気候変動による異常気象で、野菜を育てることがどんどん難しくなっている今、
育てる人、買う人双方のリスクは増していっている。

で、結局野菜はいくらだったらいいのよ。の答えはでないまま、
お好み焼きを食べたくなってしまう店主なのでした。
食べながら、育てながら、選んでいくしかないんでしょうね。